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久々の長期入院で没交渉の生活がつづいた。退院後に関係者からコロナで体調を崩したのではと心配の声が届いた。
今までにも制作中に腰に痛みを感じることはよくあることだったが、今回は痛みが増すばかりで近くの病院で診察を受け入院、療養することになった。治療はフィジカル・セラピーが施されるだけで、自然治癒を待つものだった。

私の背筋がまるで鋼鉄のように固いことにPCの先生は驚き。背筋を中心に傷んだ筋肉を修復すことが続けられた。やがて痛みは治まり退院となった。猛暑の中、病院内は全館冷房と快適な環境。持ち込んだ数冊の書籍も久し振りに読み直すことができた。食事も今どきの病院食は私の知る昔の食事よりかはるかに美味しい。私としては好きな音楽でも聴ければ申し分ないのだが、さすがに病室には音楽を聴く装置は備わってなく、仕方なくスマホで聴いて紛らわせていた。
退院して直ぐに制作を再開した。入院中に聴くことが出来なかった音楽も、レコードながら思う存分聴いた。とりわけ私の好きなモーッアルトの華やかで流麗な音楽は入院による魂の乾きを少しは満たしてくれるものだった。
私は幸いにして執行猶予付きでしたが退院することができた。けれど友人や教え子達の突然に病魔に襲われたという知らせには心が酷く痛む。
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2023.08.10 / Top↑
詩人で作家の富岡多恵子さんが亡くなった。浪人時代、私は新宿駅西にあった池田満寿夫さんのアパートを訪ねたことがあった。部屋の壁に詩人の登龍門である「H氏賞」を受賞した富岡多恵子さんの朝日新聞の記事が切り抜かれピンナップされていたのを覚えている。記事の最後に今は画家志望の青年と同居とのようなことが書かれていた。

その後、井の頭線の東松原駅近くに引っ越しされた池田満寿夫さんのアトリエによく遊びに行くようになった。いつもタバコの吸い殻が山ほど積まれた灰皿と酒がテーブルに置かれ、激しい会話が飛び交う異様な雰囲気だった。けれどその雰囲気が私には堪らなく魅力だった。在野の魂とでもいうべきか、新しい時代への期待。憧れと希望に満ちた若い人々の意気揚々とした姿。その中の一人が富岡多恵子さんだった、隅っこで小さくなって話を聞いていた私の年齢を訊いて、昭和二桁生まれに、時代の移り変わりに驚かれたような想いを関西弁で話してくれた。やがて、そこに遊びに来ていた人々が活躍していることを知るようになった。
私は学生時代大学よりも、才能あふれた可笑しな人々が集まっていた場に通った事の方が遥かに、その後の人生に多大な影響を得た。

2023.04.13 / Top↑
心に残る美術館の一つにスイスのエンガディン地方にあるセガンティーニ美術館がある。ジュネーブから電車で途中、氷河急行に乗り換えサンモリッ駅で下車。長時間の乗車だけれど移り行く車窓からの美しい風景に飽きることはなかった。サンモリッ湖畔に沿いながら坂道を登ってしばらく歩くとやがて右手にドーム型した石造りの小さな美術館がある。私が見たいと思っていたセガンティーニの未完の大作「生成」「存在」「消滅」の三部作だけが最上階に展示されていた。小さな美術館だけれど心にのこる素晴らしい美術館であった。

自動車産業の街で知られる豐田市美術館。日本で一番美しい美術館だとも言われています。1995年にモダニズム建築の巨匠、谷口吉生氏の設計によるものです。
開館当初から世界の現代美術の収集で知られています。私 の中期の作品が収蔵され公開されます、機会がありましたらご高覧下さい。

お知らせ

Exhibithion of the New Acquisition in 2022
令和4年度 新収蔵品展

会 場:豐田市美術館
会 期:2023年3月22日(水)-4月2日(日)
休館日:月曜日
観覧料:一般300円

ミュージアムショップに私の作品集がおいてあります。
2023.03.18 / Top↑
作曲家の一柳慧氏が亡くなった。元オノ・ヨーコの夫として知られるが、一柳氏はニューヨーク留学中に鈴木大拙の教えを受けたというジョン・ケイジに学びマチューナスのフルクサスにも参加した。1960年代「図形楽譜」や「不確実性の音楽」を発表し前衛芸術の先駆的な存在であった。
まるで抽象絵画のような図形楽譜にはアカデミックな芸術教育を受けてきた私は反アカデミーという言葉を知るきっかけになり大変刺激をうけた。世界中が変革していった1960年代、日本にも反美学という言葉が行き交うようになり、詩人の瀧口修造が武満徹ら14名と「実験工房」を立ち上げ音楽、美術、演劇、舞踏、文学など多義に亘り多大な影響を与え、前衛的な芸術運動が日本でも各地に展開され、表現の拡大は一気に広がった。
前衛的な美学との出会に私は心奪われ、以後時代の動向に目を向けるようになっていった。

金沢市にある「鈴木大拙館」の名誉館長がニューヨークに住んでいた時に日本のおじいちゃんが話に来るというので、講演を聴きにいった。その時に「いつわりを知らない他の生き物のしぐさ」を感じたという。当時、十四歳だった少女が大拙の禅の姿を垣間見たという、その鋭敏な感性には驚嘆する。その後大拙が亡くなるまで長きに亘、仕事を生活を支えたという。
2022.10.27 / Top↑
私も三回ほど発表させてもらったユニークな小さな美術館がある。東大教授でもあった建築家の原広司氏が若い頃に設計したもので、来館者の中には、展示作品よりも、原広司氏の建築を見に来たという、建築を専攻する学生達がいた。美術館の開館から関わってきた関係者の話によると当時、地元の大工が原氏の工法についていけぬと音をあげたという。確かに細かなディティールの仕事に応えるには、かなりの理解と工夫が求められたことだろと想像がつく。美術館とはいえ白い壁面で単純に構成された空間ではない。原氏の代表作の京都駅や飯田市美術館にみるように非常に複雑な絵画的な空間構成である。そんな小さな私設美術館のオーナーが亡くなった。その美術館に収蔵されている作品の多くは現代美術の文脈の作品であり建物も含め存続の行方が注目されていた。なかなか結論も出ぬまま年月が経ち過日、関係者からどうするべきか相談をうけた。  

陽射しの強い猛暑日に久し振りに訪れた美術館は草木が生い茂り建物も輝きを失っていた。庭に関根伸夫さんの黒御影石の彫刻が設置されていた。館内に入ると原広司建築のディティールが輝きを見せ崇高な空間であった。元永定正、アイオー、原健、堂本尚郎、山口勝弘などの戦後美術を牽引してきた、名作ばかりだった。早々に知り合いの美術館の館長に連絡し収蔵を依頼し亡くなったオーナーの業績を遺すことに話は収まった。出来ることならば建築、作品すべて記念館などとして保存出来ればと願っていたのだが、壊されてしまうことに寂しさを覚える。
2022.08.06 / Top↑