6月19日は玉川上水で太宰治と山崎富栄の死体が発見された日だ。奇しくも太宰39歳の誕生日でもあった。太宰の最後の作品「桜桃」にちなんで、同郷の作家で今官一がこの日を「桜桃忌」と命名した。

私は学生時代、文芸サークルに所属し多くの文学青年と詩や小説、評論など文学にのめり込んでいた。ときに他大学の文芸サークルとも同人誌をもちより講評会なるものを開催したものだった。

太宰治のお墓を最初に紹介してくれたのは、某大学のTさんだった。ある日、中央線三鷹駅でTさんと落ち合い、その足で太宰のお墓のある禅林寺に向かった。当時Tさんは「白金文学」という雑誌を抱え、太宰を熱ぽく語ってくれた。その後数回逢ったきりで消息は分からないままだが、今はどうしているのだろうと懐かしく想う。

桜桃忌は昭和24年6月19日に太宰と親交の深かった、井伏鱒二、佐藤春夫、壇一雄、河上鉄太郎らが桜桃(さくらんぼ)をつまみながら太宰を偲んだのが始まりだといわれる。私が桜桃忌に参加した時は亀井勝一郎が司会をしていた。太宰作品の朗読や思いで話を聞いた。太宰に憧れる熱狂的なフアンで境内は溢れんばかりだった。

太宰治の墓の斜め前には森林太郎(森鴎外)の墓があった。太宰の墓にはいつも花がありお供え物が溢れていた。けれど森林太郎の墓は静かで清楚だった。太宰は生前森鴎外を尊敬し墓は森鴎外と同じ所を望んでいたようだ。

森鴎外の娘で森茉莉さんとは池田満寿夫さんのアトリエでよく話を聞いた。物静かな喋り方だったが常に熱く語ってくれた。実は森茉莉さんが鴎外の娘であることは当時私は知らずに話していた。

昨年の暮れに断捨離した折り文芸サークルの原稿が出てきた。何故学生時代の原稿が未だ私のもとにあるのかと深い感慨を抱くのだった。

粗悪な原稿用紙に万年筆やボールペンで書かれた詩や小説、評論に赤鉛筆の校正が勢いよくはいていた。印刷は三鷹駅近くの三鷹タイプ学園だった。

いつも煙草をふかしながら実存主義を得意とした村瀬千尋さんの試論「精神の不在」は当時の時代を鋭く論じるものであった。東北で活躍する歌人の熊谷淑子さんの小説もしみじみと読ませる。高木設さんの爽やかな詩、澤田淳さんの長編小説など同人の全ての作品が真っ直ぐで、鋭敏で、爽やかな力作ばかりなのには、なんだか胸が熱くなる思いだ。


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2012.06.19 / Top↑