堀辰雄は「風立ちぬ」の序曲で・・・「そんな日のある午後(それはもう秋に近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木陰に寝そべって果物を齧った。砂のような雲が空をさらさらと流れた。そのとき不意に、何処からともなく、風が立った。・・・風立ちぬ、いざ生きめやも。ふと口を衝いて出てきた・・・」。(風立ちぬ、の一節より)

堀辰雄は軽井沢の夏の終わりと秋の到来を正岡子規と同じように「砂のようなな雲」と表現している。窓辺から乾いた夜風が吹き込み、透明な月光が差し込む。もう八月も今日で終わりだ。詩人たちは自然の移ろいを、しなやかに言葉で表す。

ふと口を衝いて出てきた詩句は、フランスの詩人、ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」の終章に書かれた詩句である。堀辰雄はヴァレリーの詩を「風立ちぬ、いざ生きめやも」とした。誤訳だという説もある。「風がおこる、生きてみなければならない」が正しいという。
「生きめやも」とは「生きようか、いや、断じて生きない、死のうという」意味だと国語学者はいう。けれども多くの堀文学フアンは「風が立った、さあ、生きよう」と理解してきた。

「風立ちぬ」は生きることよりも、死ぬことを問いかけた作品であるが、晩夏という夏の終わりという切ない情感を背に、あえて死を乗り越えて、生きることの意味を問いかけたように思う。

先年、松本市に小澤征爾氏率いるサイトウ・キネン・フェステバルを聴きに行った帰り路、八ヶ岳の富士見台高原病院を訪ねた。旧病棟(サナトリューム)の一部が近々記念館になると(当時)聞いた。入所手続書に堀辰雄、矢野綾子(堀辰雄の婚約者)、竹久夢二、横溝正史、横溝亮一(正史の息子)、岸田衿子(國士の娘、今日子の姉)、伊藤礼(整の息子)曾宮一念ら錚々たる多くの文人たちの名前が目をひいた。
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2012.08.31 / Top↑