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☆16世紀の初頭、富士の遠望をたよりに草庵をむすんだ隠者が、往時をしのびつつ編んだ「閑吟集」という歌謡集がある。 そ の中の一首に「我が恋は 水に燃えたつ蛍々(ほたる、ほたる) 物言はで笑止(しょうし)の蛍」という小歌がある。古来、音もせで思いに燃ゆる蛍こそ、なく虫よりもあわれなり、としのぶ恋の縁語としてつかわれてきた。
私には縁遠い書だが先ごろ、不意と書棚を整理中に手に落ちてきたのである。そのまま書棚の前にたたずみ見入った。裏表紙に某年の秋にと、、、私が鉛筆で記した記録があった。私は学生時代によく銭湯帰りに立ち寄る茶房があった。そこでいつも壜いりの牛乳を飲むのがたのしみだった。その場でいつも出会う学生が私にくれた本が「閑吟集」だ。渡された時、前述した歌のページに栞がはさまれていた。今もその状態は変わらぬままだ。その学生とはよく同人誌の話を熱く語った。けれど、その本をもらってからは、その茶房で再びその学生の姿を見ることはなかった。突然に消えた女子学生は、たぶん早熟だったのだろう。あるいは私が未熟だったか、どちらかだろう。

☆国産初のジェット旅客機MRJが初飛行をはたした。その日は雲ひとつない澄み切った青い空だった。ちょうど私の住む近くの上空を飛んだ。MRJよりさらに小さな調査飛行機が追従しながら飛ぶ姿を見ることが出来た。日頃は自衛隊機が行きかう空だ。再び日本が飛行機を作ることに複雑な思いで初飛行を見た人もいるという。

☆茨城県の教育委員が障害児らが通う特別支援学校を視察した経験を話す中で不穏な発言があったという。知れば知るほど驚きで、社会的反響の大きさに委員を辞職するという、辞めたから、といって人格が変わるわけではない。その教育委員は東京の老舗画廊の副社長だという。人としてはもとより、芸術を扱うものの発言としては、あまりにも悲しい話だ。

☆パリに住む友人に見舞いのメールを送った。早々に返信があった。起るべきして起こった、という。かって9・11ニューヨークテロ事件が起きる前に私はニューヨークにいた。その時ニューヨークに住む友人がワールド・トレード・センタービルには近づかない方がいいと、忠告をしてくれた。帰国してまもなく、9・11という大惨事がおきた。それ以後友人との連絡はとれなく、いまだ、生存の確認はとれていない。危い時代だ、日本も。

映画「FOUJITA」
小栗康平監督が久しぶりに作品を発表した。画家、藤田嗣冶の生涯を小栗監督独自の美意識による表現だ。上映時間は2時間余りだが、前半は藤田が何も後ろ盾もなく単独で渡仏しエコール・ド・パリの仲間たちと過ごし、乳白色という独自の裸婦像が誕生した良き時代。そして後半は戦時中の日本に戻り戦争を高揚させる、いわゆる戦争画を描いた。その後フランスに戻り洗礼お受けフランスに帰化し、二度と日本には帰ることはなかった。小栗監督は画家、藤田を通して現代日本の民主主義の未熟さと危さを言おうとしているようにも思う。

1984年に芥川賞作家、李恢成氏原作の映画「伽椰子のために」の試写会を鑑賞して深く感動し、その時に初めて小栗康平監督に邂逅した。それ以来,小栗作品に寄り添ってきた。群馬県人口200万記念映画「眠る男」では当時、群馬県知事だった小寺弘之氏から感謝状を受けるほど熱狂的にのめり込んだ。小栗さんは爽やかで真っすぐな人だ。一緒にカラオケにも行った。カラオケの店でダークスーツを着たサラリーマン風のグループの一人が、小栗監督ですよねと、声をかけてきた、何故、こんな場末に居るのだと驚き、映画の話になったことがあた。また私が勤務していた職場にも薄謝にもかかわらず講演に来てくれた。その講演に刺激を受けた学生がいた、そしてカナダの大学の映画学科に留学した。その学生はさらに大学院に進学したいとのことで、推薦文を書いて送ったこともあた。

パリに住む友人に映画「FOUJITA」の事を知らせた。是非見てみたいものだと、便りが届いた。そして晩年フジタとキミヨさんが過ごしたパリ郊外のアトリエと映画に出てきた、フジタのフレスコ画が描かれた小さな教会を案内すると書かれていた。もう随分長い間パリには行ってはいない。何時でも行ける身だか。いまのパリは異常な静けさに包まれて危ないという。
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2015.12.02 / Top↑
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