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私は浪人時代を含め3年余り中央線の武蔵境駅南口から歩いて数分のところのアパートに住んでいた。
辺りは国木田独歩のいう武蔵野の面影が色濃くのこっていた。

そのアパートは大正期に建てられたものだが戦災にもあわず当時でもすでに相当古かった。階段や廊下は無垢材が使用され一間の幅がある広い空間で壁も貼りものではなく土壁で今と比較すると贅沢なものだった。

炊事は共同で電気は100W以上使用するとヒューズが切れたものだ。薄暗い感じの雰囲気であった。

勿論当時はクーラーや扇風機はなく涼をとるにはウチワが主だった。特別に暑い日などは駅前の冷房のきいた映画館か学生のたまり場の喫茶店にいったものだった。

喫茶店に某大学の助手と名乗る文学青年がいた。ある日たまたま店が混んでいて相席をさせられた。
席に着くなり唐突に文学青年は私に「君は文学は好きかね!」と訊いてきた。

私は大学時代に何を間違えたのか「文芸サークル」に籍をおいていた。詩や小説、評論を書くことが大好きな文学青年たちに混じって私は隅の方で文学が好きそうなふりをして小さくなっていたものだった。現在東北で活躍する歌人、熊谷淑子氏は同人で当時から優れた詩や小説を発表し高く評価されていた。


ある日、大学の助手と名乗る文学青年がこれから「太宰に逢いに行く」おまえも、ついて来ないかと誘われて私は三鷹の禅林寺に連れていかれた。


その日はちょうど6月19日「桜桃忌」で寺は太宰治フアンで一杯だった。太宰治と山崎富栄が玉川上水で発見された日を太宰と同郷の作家、今富一が太宰の最後になった作品「桜桃」にちなんで命名したといわれる。

山崎富栄のような女性と何故心中したのかとよくいわれるが男女の仲は誠に不可解である。

太宰は1947年2月に神奈川県下曾我の大雄山荘に「斜陽」のもとになった愛人、太田静子を訪ね一週間滞在し11月に治子が誕生している。これも不可解である。

私は文学青年ではなかったけれど小説を読むのは今でも好きだ。文学は「ことば」を通して夢や希望や憧れを抱き、人生に於いて真実を追い続けることだと想う。


文学は人生に物語がなくてはならないことを教えてくれる最高の文化の一つである。



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2011.06.17 / Top↑
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